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社長コラム:PRESIDENT’S COLUMN

vol.035志からはじめよう。

「人間五十年 下天のうちを比ぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て滅せぬもののあるべきか」

織田信長が好んだといわれる幸若舞、「敦盛」の一節。連綿と続く森羅万象と比べてみれば、人の一生などほんの泡沫です。そう考えると、自分の今、ここにあるその思いや悩み、希望や欲望の一切はなんとも儚いものでしょうか。

儚いからこそ、そこに生きる意味を人は見出したいと思い、何かを残したい、そのように考えるのだと思います。

「志」

やっぱり、生まれたからには何かをしたい。何か意味のあることをしたい。大きな夢はかなわなくとも、何かに向かって生きていきたい。どんな人も、何歳でも、どこの国の人も、どこの誰もが本当はそんなことを思って生きているって思っています。

では、みんながそう思っているのに、方向性が一本化しないのは何故でしょうか。大きく言えば...日本は世界第二位の経済大国として、世界に貢献する国になるべきでしょうか?景気が悪い...と政府に不平を言い、国債発行して経済を下支えする構造はいつまで続くのでしょうか。自衛隊なんていらない、って言っていて、他国から発射されたミサイルの誤報に対して「自衛隊はいったい何をしているんだ!」とは、いったいどんな理屈でしょうか。小さく言えば、今日のご飯のおかずも、休日にやりたいことも、観たいテレビ番組も、何から何まで他人とは意見が違うはずです。それは当然として...どこに向かうべきか、という大きな方向性は誰かが打ち出さないと、大きな決断も日々の小さな決め事も、糸の切れた凧のように、風に吹かれてゆらゆらと宙を舞っているだけで、いつの間にか空の彼方に消えてしまいます。

方向性が一本化しないのは、大きな「志」が欠如し、小さな「欲」にしばられているからだと思います。仏教ではそんな欲を煩悩と定義していますが、日本人なら誰もが聞いている除夜の鐘の数、つまり108個も煩悩があり、それを消すために108回の鐘が新年と共に鳴り響くと言われています。今も昔も、どれだけ文明が発達しても、人間の心の本質は変わるものではありません。大きな志が小さな欲をコントロールするのだと思います。


京セラの名誉会長・稲盛和夫氏の著書「人生の王道」の中にこんな一節があります...簡略化して僕なりに記載します。

"生涯二度も島流しにあった西郷隆盛。沖永良部という南海の孤島における牢獄の暮らしは辛苦を極め、次第にやせ細り、生死の境をさまようこととなった。そんな西郷を救ったのが島の人々の献身的な支え。おかげで何とか一命を取り留めた西郷はそのお返しに、島の子供たちに「四書五経」などの古典を教えた。あるとき、集まった子供たちに「一家が仲睦まじく暮らすためにはどうしたらよいか?」と問いかけたところ、もっとも熱心な子供が即座に「君に忠義、親に孝行、夫婦仲睦まじく、兄弟仲良くし、友達は助け合えば良い、と思います」と答えた。儒教の「五倫五常」になぞらえて答えたのだから、それは立派なもの。ところが西郷はこう言った。「確かにそうだよ。五倫五常の道をもって説明するのは間違いない。でも、それはただの教えに過ぎない。実際に行うのはどれほど難しいか」そして、再び西郷は子供たちに問いかけた。「誰もが直ちに実行できる方法がある。それは何であるか?」子供たちは答えられない。西郷はこう答えた。「それは、欲を離れることだよ」"

教えは教えとして、学ばせると共に、実行にうつす際の困難性とその解決策を一言でまとめた西郷隆盛に、突き抜けるような痛快な奥深さを感じざるを得ません。西郷隆盛は生涯を「無私」な自分作りのための修練と位置づけて暮らした、と言われています。そんな西郷隆盛の人柄に初めて触れたのは大学生の時に読んだ司馬遼太郎の歴史小説の数々です。そのとき「人格作り」=「訓練」という僕の中の勝手な方程式が作られました。

失敗もする、欲もかく。悪さもすれば、自分に甘い。

直視したくない現実だらけの自分ですが、「これも訓練...いい人間、他人から少しでも信頼される人を目指し、同じ失敗を二度と繰り返さぬよう、これを糧にまた訓練だ...」そんな風に捉えられるようになりました。自分は「訓練生だから仕方がない」と考えると、失敗した自分を直視する勇気が生まれます。その上で、ぼんやりと一つの事象を反省するより、「これは訓練だ」と具体的に考えることで、失敗の原因を客観的に、継続性を持って見つめることができるようになり、失敗を繰り返さない知恵が身についていくように思います。

そんな風に過去を客観的に分析すると「失敗」の原因は、そのほとんどが不要な「欲」をかいている自分にあることに気付きました。

えーい、こうなったら俺の人生はこれから「無私」のトレーニングだ!西郷隆盛、稲盛和夫...、猿真似でもいいじゃないか! ...猿真似はやっぱり猿真似で、いつも煩悩にまみれてしまう自分が見えます。でも、僕はまだまだ駆け出しの訓練生。目指すべき道は「無私」。滅私奉公...自らの欲を捨て、社会に献身。ちっぽけな人生ですが、志くらい大きく持っても誰に迷惑もかけますまい...。

今、世界を襲っている金融危機。そして日本に暗い影を落としている脆弱な社会基盤からなる将来不安。バブルの時、僕は大学生でした。世の中が過剰なまでにお金に狂っている姿をつぶさに見ることができました。よく分かりませんが、本能的に「こんなのおかしい」なんて思ってました。当時、よく歌ってたカラオケが「それが大事」by 大事マンブラザーズバンド、そして「どんなときも。」by 槇原敬之だったりしました。 "高価な墓石を建てるより、安くても生きている方がすばらしい♪""どんなときも僕が僕らしくあるーために♪"そんな歌を涙ぐみながら熱唱したのは、バブルの狂気に対する本能的な抵抗だったのかも知れません。

人は学ぶことなく、20年近くたった今もまたバブルの後始末に右往左往しています。アメリカ人の行き過ぎた所得格差、外資系銀行に勤める若者の高給振りも、どんなちっぽけな会社もみな株式公開を念頭においていることも、本能的に「こんなのおかしい」と思っていました。日本の脆弱な社会基盤は、自身の議席確保が最優先である政治、縦割りの役所主導の縄張り行政、国と地方の利権争い、などなど...小さな「欲」の数々が、複雑怪奇に絡み合ってしまっている姿をそのまま映し出していると思います。そんな現実の中には「志」のかけらも感じることができません。

人間、結局死んでしまいます。自分の目の前の困難(≒自分の欲が叶わない現実)など、宇宙の営みから比べれば、全く取るに足らないちっぽけな問題です。

だからこそ、生きている間に、何か少しでも「いいこと」をしたいです。

それが「志」です。

西郷隆盛が問いかけた「一家が仲睦まじく暮らすには...」との問いかけ、これも一家が仲良く暮らす、という簡単そうで難しく、そして誰もが素敵に思える「志」の一遍です。

264年続いた天下泰平の時代に終止符を打ち、明治維新を通じて日本の方向性を記した西郷隆盛は「無私」という処方箋をもって志と対峙しました。

血で血を洗う戦国時代、信長は人間五十年、と自らの命に限りがある事に正面から向き合う事で、天下統一という志を半ばまで成就しました。

世界のリーダーたち。日本のリーダーたちはどんな志を持っているのでしょうか!?

僕ごときが心配することではないのかも知れません。

でも、僕ごとき、あるいは皆さんのごとき一人の人間が「志」を持ち、それに向かい「無私」の境地でまっすぐ突き進んでいく事が、社会を健全に前進させるエネルギーになる、そんな風に思います。

誰に遠慮する必要もありません。まずはでっかい「志」からはじめよう!

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